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釣 り 春 秋
                             著者 杉浦 清石
肘折のこけし
山形県の最上川支流に銅山川(烏川)があります。
この川は上流で苦水 川と別れ、この苦水川の下流を除いてここより上の本支流でイワナが良く釣 れました。

今から二十五年以上前になりますが、釣友二人とこのあたりを 釣り歩いた想い出です。



山ウドの採れる頃でした。

角川上流を釣って、そのまま道を深沢開拓から 苦水川の烏川に出会う所に出て肘折温泉に今日の宿を求めることにしました。

肘折(土地の人はヒジョオリと言います)
温泉は元来湯治場として土地の人に 親しまれ、含重曹食塩泉で源泉の湯温も高く農閑期には麓の農家の人々で 賑わったところです。

昔、老人が崖から落ちてヒジを折り、この温泉ですっかり良くなった、とい うので誰言うともなくこの名が付いたと聞いています。

寒河江サガエに抜ける山道と烏川の間に細い行き止まりの道を挟んで両側に、 旅館がずらりと並んでいます。 

新庄あたりからここまで乗合バスが一日二 本程(季節によって本数が変わります)通っていて、バスの終点に大きな共 同浴場があります。



朝になるとこの共同浴場を中心に左右へズラリと朝市が立ち、このあたりの 宿屋に泊まる湯治客がその日の副食の買い出しで賑わいます。

今の観光地の土産物を商う朝市と違って、土地で採れた山菜や、魚類の干物 ニシンの糠漬けなど、その日の食料品が主でした。

ここは豪雪地帯で雪の積もるときは市が立たず、食料品を背負ったおばさん が宿の待合い室(今のロビー)に荷を降ろして商ったと云います。

私達はこの旅館街の中程にある比較的大きな旅館に泊まりました。

他の旅館は二階の出窓のわずかなところに、シチリンがあり、渋団扇シブウチワ などが斜めに置いてあって、湯治客専門に泊めるところで我々の食事が出来 そうにもなかったからです。

後で聞くところに依ると一般の客も泊まれたそうですが。



私達の旅館でもお茶菓子代わりに香りの高い山ウドが出て、食事はごく一般 的な家庭料理で、魚の煮付けやミズという山菜など量は多いが特別なもの ではありません。 

それでもここではこれが山海の珍味です。

食事も済んで腹ごなしにこのあたりを友人と共に散歩に出ました。

バス停近くに土産物屋があり、このあたりの名物でウイロウに似た黒砂糖の 入った「くじら餅」や乾燥した「木くらげ」、それと副食になる佃煮や椎茸 味噌・醤油などを置いてあります。

旅館や商店のあるところの外れを曲がると、
どこの温泉場にもある小さな、 遊技場という人形落としの射撃の店があり、
客引きのおばさんは私たちが覗 いても古い週刊誌に目を落としたままで呼び込みもしません。

その並びには 「こけし」作りの名人が一人で足踏みのロクロを回しています。

小さな温泉 街は、わけなく一回りしてしまいました。

宿の座敷に戻ると、女中さんが食事の後かたずけに来ていて、ついでに布団 を敷いて行きます。



先ほど見たコケシに似て丸顔の可愛い、幼さの残った 子守に来る子のような女中さんに、釣友が

「この辺でなにか遊べる所はない の」
と聞いています。

「もう一時間もすれば下のバーが開くよ」

赤いホッペの女中さんは、そう言 い残して部屋を出て行きました。

アルコールのほうは全く駄目な私ですが友と一緒に階下のバーへ行ってみま す。

少し暗くしてムードミユージックが流れ、カウンターの後ろには洋酒 の瓶が並んでいる、ありふれたスタイルのバーですが、まず出てきたオード ブルが、拍子木に切られた山ウドの山が皿に盛られ、脇に味噌が少々添えて あります。

別の入り口からはよその旅館のお客や土地の若者も入ってきます。 

あとで 気が付いたのですが、旅館の玄関のわきに豆電球のたくさん点ツいた別の入り 口がありました。

女の子も五人ほどいてお客のサービスをしています。

私達の側に来た女の子 は何と!先ほど食事の後かたずけに来た子で、お化粧をしたその姿は、もう 立派な一人の妙齢な女性でした。

===翌朝、次の釣り場へと向かう私たちを見送る彼女の顔には、夕べバー で見た熟女の姿は片鱗もなく、割烹着姿のこけしに似た顔で、いつまでも手 を振りながら良く徹る声で言いました。

「また来いっちやー」。



タナゴ釣り
一番下手だったと自認している釣り。
それがタナゴ釣りです。

稲城市に住んでいた頃、正月も二日になると何となく胃がもたれて。

それで散歩がてら玉虫を探して歩きます。

玉虫というのは「イラ蛾」の幼虫だそうで、木の枝に生みつけたタマゴは 直径1〜1.5cm程で桜の木の皮のような色をしています。

タマゴ形で殻はちょっと固く、それを割ると中にブヨブヨの黄色い幼虫が 居てこれがタナゴ釣りには無くてはならない最高の餌でした。

桜の木や柿の木に付いていて、手で簡単に取れます。

家の近所には柿の木があり、手の届くところに玉虫があるのを捜しながら 歩いて二拾個ほど取ると丁度よい運動になります。

釣りの餌には、出かけるときに殻を割って中の幼虫を取り出し、頭の黒い 部分と将来は羽根になりそうな小さな鰭ヒレのようなものを切り捨て、チリ紙 に挟んで余分な水分を除きます。

釣るときは切り口にハリ先を入れ掻き回すようにして中の黄身状の物を極小 の仁丹粒より小さめに巻き付けるのです。



このとき皮も少し付けて鋏みで 切れば餌持ちが良くなり、一回で十尾以上のタナゴが釣れます。

遠出をして釣りに行くときは電車の中で玉虫を処理すれば釣り場に着いたとき 丁度使い頃の固さになります。

仕掛けは、数釣りをするには何と云っても脈釣りで、黒染めの道糸に目印を 3〜5個付けます。

目印は昔は渋糸のような水に入っても軟化しない糸を切っ て使いましたが、私の頃にはトンボと云って色着きのセルロイドを飛行機のプロペラ型をした真ん中に糸を通す穴を二つ開けたものを市販していました。

長さは1.5cm位のものです。

オモリは茄子型の今なら0.何号とか云うので しょう流れによって使い分けますが小さい物で、上下に真鍮線の輪が付いて います。

上に道糸、下にハリスを付けます。

ハリスは絹糸の赤染めを使う人が多かったようです。 

長さは5cm前後でハリは三腰ミコシ・流線・鐙アブミ・袖型等の極小です 細流ホソでオダ(ソダ)という木の小枝などが水中に沈めて有るところが良い ポイントで、水中にキラリ・キラリとタナゴが反転するのがみえました。

藻の影や草付きの足元もポイントで魚影が見えなくても餌を落とせば魚が 集まります。



竿先を上下に動かして魚を誘うのも技術の一つで、餌を喰うとトンボの肩が 左右に揺れます。

合わせはそのまま竿を上げればよいのですが、ちょっと コツがあり、水中で魚を暴れさせると他の魚が散り、あまりゆっくりですと 喰い逃げされます。

上手な人は500尾以上も釣りますが平均して100も釣れば上等。

私などは50 も釣れば釣れた方です。

どちらかというと、ウキでのんびり釣る方が好きで、すぐに鮒釣りに転向し てしまいます。

釣り場は稲城の家の近くでは南武線の稲田堤駅の近くで多摩川に入る小川に 少しおりましたが、
昔は対岸の京王閣(今の競輪場)前の河原にある砂利穴 や是政あたりでも釣れました。


市川(千葉県)に住んでいた頃は真間ママ川は良い釣り場でしたが、京成電車 沿線の佐倉の鹿島川・酒々井シスイあたりの印旛沼へ入る細流が数釣りの絶好の 釣り場で、大会などが行われた所です。

勿論佐原向こう地や滑川の新利根近くの水路にも沢山いて寒鮒釣りに行くと タナゴの群れているのを見ることもありました。



牛久沼周辺や霞ヶ浦に入る小川でも良く釣れました。

釣れるタナゴはヤリタナゴが主で、時々オカメ(タイリクバラタナゴ)が釣 れると大事に持って帰ります。

雌はザコ同様の扱いでしたが、雄は産卵期 に近ずくと青色に輝き尻尾あたりが赤くなり、観賞用に喜ばれます。

ミヤコタナゴは石神井シャクジイ公園に入る石神井川まで釣りに行ったことがあ りましたが、一つも釣れませんでした。

そのときはもう幻の魚になっていた のかもしれません。

産卵するための二枚貝がもうなかったようです。

背鰭・尻鰭に白や黒の縞が ある魚です。

名人竿忠が作ったというタナゴ竿と同じく竿忠の作ったモミジの木目の美し い水箱が釣りの会で売りに出たことがありました。

どちらも小早川幽竿ユウカン という人(私の親しかった先輩)が買い取りました。



この先輩も本業(可鍛鋳鉄物・チェーンマレーブル製造)から退いて千葉で 釣り堀をやっていると聞きました。

いま健在なら九拾歳を過ぎています。 私と一緒にタナゴを釣った友も夭折してしまいました。

他の会議室で都タナゴの話が出たのでなつかしくなり此処へ載せてみました が、こんな釣りもあったことを一人でもよいから知っていて下されば、幸甚 です。

私の手元には「竿かず」のタナゴ竿が使うこともなく眠っています。


江戸時代、大名が墨田川に舟を浮かべ女の髪の毛で釣ったと云われるタナゴ も、今では釣りの対象から外されるようになって、情緒という言葉も無く なってしまうのではないかと心配している今日この頃です。




「乗っ込み鮒」
三月から四月にかけて学生は暇な季節のようにみえて最高学年にもなると 結構忙しいものです。

新入生の歓待準備とか教室換えとか理由をつけては 狩り出されて、まとまった休みはほんの少し。

その休みを利用して潮来の 釣り場へ急ぎます。

乗っ込み時期になると水路の近くにある家では、鮒が細い段差の有る用水路 に上がる音で目を覚ます、と云います。

バシャバシャとかピシャピシャとか人によって表現はちがいますが、二  三日はそんな音が続いて、春が来たことを耳で知るそうです。

乗っ込みとは、魚が産卵の為に浅瀬に急ぐ行動のことで、この時季は おなかの子供と自分の体力を維持する為に荒喰いするのです。

これを 狙って釣り士は思い思いの釣り場へ急ぎます。

このときの釣り方はズキといって竿よりも仕掛けを極端に短くし、大きめの 玉ウキを一個か二個付け、真菰ゃ葦の間に真っ直ぐ餌を落とします。

ちょっと考えると根掛かりしそうですが、魚が掛かってくれればハリは口の 中なので案外大丈夫。

池や沼それに霞ヶ浦のような浅場に葦のある釣り場 で使います。



真菰や葦のない用水路では玉ウキを数個付けたシモリ(沈める)釣りや、 長ウキ仕掛けの竿を二三本使う並べ釣りです。

私の行ったときには乗っ込の盛期は過ぎていて、期待薄でした。

それでも 子持ちの鮒や子をはたいた鮒がいつもより良く釣れます。

寄り道をして釣りながら歩いたので加藤洲の定宿にしている舟大工の家へ着 いたのは夕方でした。

佐原で電話をしておいたので夕食の支度が出来てい ました。

私が食事をしていると舟大工の若い者と、その友達が二〜三人集まって何か 相談をしています。


今日あたりは何処とかが良いんじゃないかと話ていましたが、何か決まった らしく、食事を済ませた私に舟へ乗れというのです。

聞いてみると「鮒掴ツカみにゆくべ」ということで、もう長靴やらカンテラ やらを私の分まで用意してありました。

折角東京から来る客を何とか歓待しようという若者(といっても私より年上 ですが)に感謝して舟にのります。



カンテラ(カーバイトランプ)に水を入れ火口に点火して出発です。

目的の田に着くと畦脇に舟をもやい、 長靴を履いて田へ降ります。

田には 水が張ってあり、その水深は二十センチ程でしょうか。

カンテラで足下を照らし、静かに歩くと足下から魚が逃げてゆきます。

田の土が褐色で鮒も褐色、ちょっと見分けがつきません。

魚が気が付く前に、こちらが先に魚を見つければ静かに近かずいてそっと 水中に手を入れ鮒を掴むのです。

口でいうのは簡単ですが捕まえられるのは五匹に一匹位い。

土地の若者は 三匹に二匹はものにします。

躊躇せずに無造作に魚を拾ってゆきます。

バケツに半分も捕まえたころ一人が呼ぶ声にみんなそちらへ集まりました。

それは食用蛙を見つけたというのです。

ここでは鮒より食用蛙が喜ばれるのか、それとも捕まえることが面白いのか とにかく皆夢中で追いかけます。

蛙は光に弱く、暫くはじっとしていますが近ずくと幅飛びの名人で、逃げら れてしまいます。



それで包囲作戦で捕まえようというのです。

私はただ見てるだけ、やがて足を藁で縛られた蛙を下げて作戦終了。

バケツ 一杯半と蛙・雷魚各一匹が今日の戦果です。

農家へ戻るとおかみさんや旦那が出てきてバケツを覗き、予想外の獲物に喜 んでくれます。

私が来たらツカミに行こうと前々から話していたそうで、 時季が遅くなったので駄目かと心配していたらしいのです。

翌朝川で顔を洗っていると蒲焼きの良い匂いがしてきました。

朝食のおかずに鰻の蒲焼きが箱膳に乗っています。

これは珍しいと箸をつけてみると油気がなく小骨が気に掛かります。

味もちょっと違う。 食事が済んで御膳を下げるときに聞いたらそれは 夕べ取った雷魚でした。





みちのく釣行記
以下の雑文はひと昔前のもので、東北自動車道が宇都宮終点の頃の釣行記 少々読みにくい点は御判読頂いて長文勘弁願います。

行く秋を惜しみての旅なれば、温泉・紅葉と「みちのく」の 山を愛メで、 楽しかるべき道筋を、山に棲む魚求めて禁漁間近の釣りゆえに、目的地を 定めなかったことを後悔し、夜が明けたら地図と相談と、ここ南部の盛岡 まで軽自動車でたどり着く。

まだ日の出まで三十分、津軽街道に足を向け、車のライトを消す頃は 「鉱毒排除処理中」と大きく書いた立て札が、やたら目に付く松尾鉱山。

硫黄の山は痛々しく、庇(ヒサシ)傾く選鉱場。 道のみ舗装の新しい 十和田八幡平(タイ)国立公園へ、いつの間にか踏み込んでいた。

アスピーテライン・八幡平樹海ラインと凝った呼び名の山の道。

越えて入 るは秋田県。

フケ・いやいや の「ふけの湯」の、降り口右に坂下る。

硫黄の匂いは玉川の 温泉宿は湯治場で、中を流れるその川は 手も入れられぬ湯の流れ。



霧雨に 丹前羽織る浴客が、傘を片手に花ゴザを 抱えて戻る姿あり、 「みち のく」の情緒あふれる湯治場の詩情豊かなその風景。

ちなみに湯の川を遡(サカノボ)ればそこは地獄。

地軸の活動を目のあたりに見 る恐ろしさ。

岩に穴を穿ウガってブツブツと吹き出る硫黄混じりの湯のすさ まじく、水枯れて水蒸気のみ数メートルも吹き上げる穴もあり、その幾つか が集まって川を形成するまでには、数十畳敷きの平らな岩が地熱でほどよく 暖まる。

随所に湯治客が花ゴザ並べて、天然のサウナを楽み、或いは流れる湯を集め た無料の露天風呂も見え、都会育ちの妻の喜ぶこと しきり。

いささか熱気に当てられて、玉川温泉後にして、水清くして魚棲まぬ 田沢湖 眼下に見おろして、乳頭(ニュウトウ)温泉郷に入る。 ここまでの間、さしたる釣 り場なし。

硫黄分の多い川だけを見てきたせいか。

乳頭温泉郷とは、奥羽山脈の駒ヶ岳、烏帽子岳(乳頭山)を中心として、散在 する温泉群を総括して呼ぶが、その多くは一湯(トウ)一軒の湯治場で、麓に近い スキー場のみに二・三の宿が集まって一温泉を形成する。

私たちは、その中ほどの「鶴の湯」を宿に決め、舗装道路を横にそれ、山道を 下り、イワナの棲むという先達(センダツ)川を橋で越え木造アパート風の宿に着く ここを流れる小川は玉川温泉より清澄で、湯治客の洗濯物のすすぎにも利用 されるほど。



短竿の沢釣りも良いのではないかと思われる。

なにはともあれ温泉に浸って、次は夕ご飯。

 岩魚・山菜・山の幸。

早い 夕食済ませると、旅の疲れかウトウトと、いつの間にやら夢の中。

夢に流れる歌声に、フト目を覚まし肌寒く、半乾きの手拭いぶら下げて、 夜の 風呂場へ浴びにでる。

幻か、うつつに聞いた唄声は、板一枚 隔(ヘダ)てた女風呂。
薄暗い明かりだが、浴槽(ユブネ)の裾の仕切板。

下の隙間の向こうには、ずらりと並んだ女の足が、薄く濁った湯を透し、 ユラリユラリと揺れている。

喉が自慢の音頭取り、一節唄う民謡に 肩を揺すって唱和する、農村女性の 唄声は今年の不作の影もない。

この正調訛り入りの音律は、いやが上にも私の旅情をかき立てる。

民謡に事欠かぬこの土地の 艶歌・怨歌の数々は、何時果てるともなく流れ 出る。

 風呂場を離れて部屋に入り、再び眠りにつく頃は、自家発電の電灯 も消えて、遠い昔の家に見る 石油ランプに灯が点(トモ)る。



見送られて「鶴の湯」を後にしたのが午前九時。

先達川には竿ださず、 小さな沢に足を止め、十メートル上の堰堤で、ミミズの餌で試し釣り。

型の良いヤマメが一つ魚篭ビクに入る。

そこの釣り場を女房に 譲り堤ツツミ を越えてみる。

上はザラ瀬になっていて、流れの先に新しい、堰堤見て 引き返す。

女房は ヤマメ・イワナと釣り続け、小場所にしては大成功。

田沢湖畔を小保内(オボナイ)へ、そして岩手の雫石。

峠を越えて岩手県。

はじめの橋が荒沢で。

その名の通り、大岩の ゴロゴロ続く好釣り場。

橋の直下で第一投。

中型岩魚が躍り出る。

妻には岩が大きすぎ、残念ながら棄権して、一時間の約束で 私一人が釣り上 がる。

岩登りは苦しいが、ポイントごとに大型や 中型岩魚が餌に来る。

百メートルも行かぬうち、獲物はすでに十を越し、約束時間は超過する。



谷が大きく曲がる所、五メートル余の滝があり、苦心の末に滝壷へ 長仕掛け にして餌を落とす。

水の落ち込むポケットで、突然竿が締め込まれ、手も なく糸がチモトから 切れて穂先を跳ねあげる。

アッという間もあればこそ 絡んだ仕掛けにただ呆然……。

小休止して気を取り直し、ポイントを変え再投入。

当たりはないが払い出 し 流れる餌の後ろから、尺余の岩魚が三〜四尾 着いてくるのがよく見える 餌を変えても喰い込まず、魚は小型に変わってる。

糸切って 逃げた魚が恨めしい。

この滝の 上にはさぞかし大型が、居ることだろうと想像し、遥かに過ぎた 一時間 気にしながらも、帰途につく。

名高い「小岩井牧場」で、ジンギスカンに舌つづみ。
放牧中の羊君に 挨拶をして和賀川へ………。

二、三の支流で試し釣り、遊んでいるうち雨になる。

小雨に煙る中尊寺、一ノ関では日が暮れる。
霞んで点トモる宿の灯に、 谷の流れが揺れている。

日本庭園そのままに、岩から生えてる松の木も、 風情があって美しい。



土産のクーラー(保冷庫)重くして、温泉・民謡・渓流と、旅の話も詰め 込んで、その日のうちに帰郷する。


雪溶けて 又来るその日を夢に見て。





          終わり

  ☆ 後記 あれから何年か経って雫石から荒沢へ入って見た。

竜川と荒沢の出会い近くに立派な仙岩トンネルが秋田へ抜けていて、昔の 峠道は国見温泉への上がり道に利用される程度になってしまった。

この川は夏期に至るまでの水量が多いときはポイントが沈んで少なくなり、 比較的水量の減る秋口が狙い目となる。

大型の居た五メートルの滝はただの 落ち込みになってしまっていた。



この上も川幅は広く、片側ゴルジュになっていて魚は釣れなかった。

ここに下で釣った魚を上げておいたので、ひどい荒れが無ければ魚は増える と思う。

一時期だったが隣の鹿倉(シガクラ)沢・本流の竜川と荒沢の出会いあたりで、 良い釣りをした。

下の堰堤上から仙岩トンネル脇の橋まで三人で釣って 二十五〜三十センチの岩魚を各々二十尾ほど釣った。

それも午前中の釣り である。

次に行ったときは夏休みのせいか釣り竿をかついだ釣り人が行ったり来たり していたので、遠慮して葛根田川へ場所を替えた。

この頃から地元の岩手 の釣り人は秋田の方へ遠征するようになった。






落ち鮒
両国から成田へゆくまでに安食アジキという駅があります。

利根川が流れ を変えて残されたと思われるような長門川が近くにあって、この川は印旛沼 にも通じているところを見ると 印旛沼は利根川の支流だったのかも知れま せん。

この長門川はへら鮒釣りで知られた川ですが、中秋には、ここにかかる長門橋 の上から眺めていると、20cm程の鮒が集団で流れて行くのがみられました。

落ち鮒です。
秋も深まると水深の深いところか湧き水のある、水温の暖かい 所へ鮒は避難します。

落ち葉と共に集団で移動している鮒は、目の前に餌が あっても喰いません。

集団になる前後には良く釣れます。

来るべき冬に備えて体力維持の為に喰っ ておくのでしょう。

 これを狙って行くのが落ち鮒釣りです。

この川では私は釣りませんでした。

藻が沖まで張り出していて、探り釣り より並べ釣りに有利ですし、長竿を持ち合わせないのと、歩いて釣るのを好 む私には不向きでした。



ここは安食梅吉と云う方が釣り誌に良く書いていましたので、どんな釣り場 か見に行ったのです。

その当時のペンネームは得意とする釣り場の名前を付 ける方が多かったようです。

あとで釣り誌に載るようになった一之江鮒夫さんも江戸川区の瑞江ミズエあた りに住んでいたと記憶しています。

近くに一之江・二之江という水路があり ここの釣り場を紹介したのが釣り誌に載った始まりだったと思います。

落ち鮒釣りで私の良く行く釣り場は、

神崎コウザキの渡しで利根川を越えて、 新利根へ出るまでの戸指川や、大重沼に入る水路と新利根の幸田橋あたりで した。

戦後で、そろそろへら鮒が放流され始めた頃です。

もう本格的にへら鮒を専門 に狙う人も多くなり、横利根には釣り舟が増えました。

 しかし私は相変わ らず真鮒釣りです。

一つ変わった事というと、いつもの二本鉤の仕掛けは上鉤がオモリの少し下 へくるように作っていましたが、へらや半べらが混じるようになって、オモ リ上5〜10cmあたりに上鉤が来るようにしました。



これは後で雑誌に乗せたのですが、ここに赤虫か練り餌をつけて、下鉤で真 鮒、上鉤で主に半べらを狙う事によって釣果を上げたのです。

探り釣りという玉ウキを複数付けた仕掛けの上に、長ウキを追加しただけで すが、オモリを軽めに付けることによって、僅かな流れで、いわゆる「片ズ ラシ」の形で流れるようにしました。

「鮒はオモリで釣れ」という先人の残した言葉があります。

これはオモリを重くして底へ付けて釣れ、という意味ではなく、オモリの調節が重要な ポイントで、餌を付けてやっと底へ達するていどの目方のオモリを付けるこ となのです。

これは他の釣りでも云えると思います。

それはともかくオモリとウキとのバラ ンスをとり、上の餌が水底を切ることで今まで釣れることが少なかったヘラ鮒 や半べらを釣ることが出来、私の釣果は他の釣り士より上廻っていました。



たしか戸指川だと思いますが、川の中に屋根付きの舟を浮かべ、住まいのよ うにして釣りをしていたのは、へら鮒釣りを関東に広めた土肥さんでは なかったかと思います。

ある日戸指へ落ちる細流を釣って幸田橋へ廻った時、四十がらみの釣り人と 会いました。

 私より遥か年上です。

その人は私の釣り方を暫く見ていましたが、やがて私の側に来て、自分から 釣り桶のフタを取り、中の魚を見せてから、「失礼ですが、どのくらい釣り ましたか?」と聞きます。

今まで会った釣り人は、人の釣果を見てから自分のを見せるか、あるいは、 「釣りましたね」の一言で立ち去るかでしたが、この人は違います。

水箱の中には二十尾に足りるか足りないかの鮒が入っていました。

先に見せ られてしまえばこちらも見せないわけにはまいりません。

私も蓋を取って見 せます。

 数えてはいないのですが、その人の倍近く入っていました。

あとはどこで釣ったか、とか仕掛けを見せたりする釣り士同士の会話になり 結局は一緒に帰ることになります。

私はいつもなら歩いて神崎まで戻るの ですがこの人に誘われるまま、ここからバスに乗り佐原に出ました。



この日全く偶然ですが佐原のお祭りで、大きな山車ダシが駅前の広場に集まり 東京の祭りとは異なって、どこか関西の祇園祭りに似た雰囲気がありました。

威勢の良さよりも、華やかさと、長閑ノドカさが同居していて、ゆったりとし た気分で見ていられます。

祭りの囃子にいつしかその釣り人とも打ち解けて、話をしたような、しな かったような、汽車の来るまでの長い時間を過ごします。

山車ダシを回すのか、それとも暫しの中休みか、囃子の音がピタリと止み、 空白の間があって、

「兄さんソバでも食べるか」

という言葉に一緒に蕎麦屋へはいります。

釣り桶を降ろしたとき箱の裏に「魚心」という焼き印の押してあるのが見え ました。

魚心というのは当時釣り誌に良く書いている人で、鈴木魚心と 前田魚心という方がおります。

もし魚心が二人いなかったらその人の名をすぐに呼んだか聞いたかしたので しょうが、もしも違っていては失礼と思い、ついに別れるまで名前を確かめ ませんでした。

その人はお酒を注文して私に勧めます。




当時お酒は統制されていて一般に 売られることはなかったのですが、この人はよほどの顔利きなのでしょうか 私は今でもアルコールはだめで、勿論当時も

「飲めませんから」と断ったの ですが、

「大丈夫、酔うような酒ではないから、少し飲んで暖まった方がいい よ」としきりにすすめます。

あまり断っても失礼ですので一口飲むふりをして、盃に口をつけると、以外 に口当たりが良く、ちょつと甘味があり果実の香りがします。

一人で一本と 決められているらしく、二人いれば徳利二本が並びます。

私は盃三杯位で、あとはその人が全部あけてしまいました。

再び始まる祭りの笛太鼓を後に、汽車に乗ったころは私は酔いが廻ったのか 眠くなってきました。

 落ち鮒が列を作ってぞろぞろと。

「本当に弱いんだな、薄めたブドー酒なのに」      その言葉は半分夢の中でした。


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