かつて三池集治監(現在の三池工業高校の場所にあった)からこの宮原鉱まで囚人たちが歩いてきて石炭を掘らされていた。この辺りの地名は、白坑(シラコウ)という。宮原鉱の別名である修羅坑が由来だといわれている。
そういえばおやじも、昔、この辺りに囚人の幽霊が出る幽霊橋というのがあったという話を、何かの本で読んだことがある。
現在も残る旧三池収治監外塀。かって、この道を囚人たちはどんな思いで歩いて行ったのだろう。
ここからは炭坑電車も見える。
ここの煙突が巨大な墓標に見えるのは私だけだろうか?
敷地が大牟田市と熊本県荒尾市にまたがっているが、立坑などの主な施設は荒尾市側にある。
今後、整備保存されるらしいが、整備される前に施設内に入る機会を得て、閉山時のまま時間の止まったような万田坑を撮影した。
事務所の中には閉山した平成9年3月のカレンダーがそのままだった。
古いラジオの上には主のいないヘルメットが・・・・・
キャップランプのバッテリーに
充電する機械
休憩室と思われる部屋では炭鉱マンたちの談笑する声が聞こえたような気がした。
勝立の帝京短大の西、市民の森への道を入ってすぐ、やまのかみさんがあった。私もはじめて来た、いや、子供の頃一度ぐらいは来たことがあったのかもしれない。
(おじが大砂社宅に住んでいたので、夏休みは1週間位泊まりがけで遊びに来ていた。)
誰もいなかったが、眺めはいいし、また来ようと思った。
かって、それぞれの炭坑にやまのかみさんがあったらしい。俺のおやじがさがろった四山坑も四山にあったらしい。
大牟田に数多くあった炭坑社宅も、どんどん取り壊されて無くなっている。
宮原鉱からほど近い、この臼井社宅も、今はない。
新港社宅があったあたりは貯炭場になっていて、ここに社宅があったとは!
かって、石炭の積出港として賑わった三池港。この港は三井の港であり、我々一般人は足を踏み入れることが滅多になかった。現在は、誰でも入っていける。
しかしそこには今も、三井の御紋が!?
延命公園の市民体育館の前に、炭鉱夫の像がある。
それは、この街を発展させた石炭を、地中を這いずり回りながらも掘り続けてきた、誇り高き炭鉱マンの姿にほかならない。
この炭鉱マンの目には、炭鉱があった街の姿はどう映っているのだろうか・・・・・。