炭坑マンの息子
 俺の親父は炭坑マンだった。
 炭坑マンって、なんかカッコよかでしょうが、ウルトラマンのごして?

 左の太ももには坑内で負ったでっかい傷跡があった。


 何かというと、会社、会社と言っていた。

 四山坑の竪坑が爆破された日、

 親父が生きていたら、たぶん、酒をあおって泣いたと思った。
 親父はずうっと四山坑に勤務していた。
 テレビから流れてくる爆破のシーンをみて、
 俺はどうしようもない怒りというか、やり場のなさをおぼえた。
 無性に悲しくなって、酒をあおって泣いた


 踊らされた民衆、結局は、すべては、民衆とか大衆とかが、踊らされただけで、三池争議が、なあぁんていうことやろて、思うとですたい、総労働対総資本、ゴジラ対ガメラんごたるもんたい、結局は、かなわぬ、夢、夢でござるぅぅぅぅぅxっ・・・
そんかこつば・・・だけん、会社が、つぶれたら、生活できんけん。
やっぱ、歴史の教科書には、ちゃんと、三池争議で、日本の・・・・ あはははは・・・・
おやじ、頭ば、たたいてくれんね・・・・

「誇り高き炭坑マン」

 親父はお洒落やった。出かくっときはいつも、ソフト帽ばかぶりよった。晩年になっと「ハゲ隠したい」て言いよったばってん、坑内で炭塵まみれになるけん、余計洒落よっとやろなて思いよりました。テレビで坑内から炭塵まみれになって上がって来よる炭坑マンの姿が映ると、「あげんかとこば映さんちゃよかろもん」ても言いよった。三池炭坑では、会社ば出る前には、必ず、会社の風呂に入ってから帰って来よったけんですね。
 親父を行きつけのスナックに連れて行くと、「水割りやら飲まるるか」て言うてウィスキーばストレートで飲もかするけん、「ロックにしとかんね」て言うと、しぶしぶ、承知する。「アブサンは置いてなかろうな。マスターは飲んだこつあるね。」などと言い出す。家では焼酎にカボスば入れて飲みよるくせにと、俺はつぶやく。
 こんな親父が死んで何年経ったやろか、今になると、もっと炭坑の話を聴いときゃよかったと悔やまれる。そばってん、親父も、こんかネット上に、自分のこつば息子が書くては思てもみらんやったやろな・・・。
 


 「三池争議(その1)」

 何かの話のついでのように、三池争議という言葉が俺の口から出た。職場の若い女の子は「何ですかそれ?」と言った。俺は、思わず、「なんば言いよっとか、こん馬鹿、学校で習ろたろもん。」と言いそうになったが、思いとどまった。
 そうか、そうだよな。(自分の中で、納得させようとしていた。)彼女たちにとっては、そんなもんやろな。そういや、60年安保闘争とか、俺の記憶にはなかもんな。そばってん、同じ時代の三池争議は・・・・。

 それは、今の俺にとっては、断片的にかすかにしか残っていない遠い記憶の話ばってん。俺がこ〜まかった頃の話したい。

 俺の親父は三井鉱山に勤務し、四山坑に下がりよった。親父は三交代勤務やったけん、こ〜まかった俺は夜中に帰ってきたりする親父と数日会わないことがよくあったりしよったとばってん。最近親父といっちょん会わんなあと、幼心に思うようになったことがあった。すると、親父がひょっこり帰ってきた。しかも、お土産にお菓子を1箱(1箱といっても1個のことではない1ケースばい)持って。
 何のこっちゃろ解らんやろけん説明すったいね。この頃が三池争議の真っ最中やったとたい。俺の親父は新労組(いわゆる第2組合)の一員として会社側につき(俺はそげんとは思わんとばってん、この方が話の解りやすかろけん)、炭鉱に篭城しとったとたい。そん頃の炭鉱の敷地の入口は労組員(いわゆる第1組合)がピケをはって、会社側の人間が入られんようにしとったつげなたい。そこで、会社側は、炭鉱の敷地の中に篭城して、炭鉱を守っとったげなたい。それで俺の親父も炭鉱に何日も泊まりこんどった訳たい。そしてそんときに配られよったお菓子を食べんで、俺どんのお土産に持って帰ってきよったとたい。
 俺の記憶の中には親父から聞いたいくらかの三池争議の話が残っているが、その親父が死んでしまって、もっと話を聞いておけばよかったと後悔している。
 三池争議。この街から炭鉱が消えて、その話をする者もどんどんいなくなっている。かって、総資本対総労働の闘いとまでいわれ、日本中にその名を知られた三池炭鉱を舞台とした歴史的な出来事は、炭鉱の立て坑やホッパーたちと一緒に、この街から消え去っていくのだろうか。


「三池争議(その2)」

 親父から聞いた篭城の話を思い出してみよう。

 炭坑の敷地内に篭城して、寝泊りは風呂場でしよったごつ聞いた気のする。それと、木刀ば作って家に持って帰ってきたこともあり、兄貴と奪い合いの喧嘩をした記憶のある。こん頃は親父が風呂場で木刀ば削りよる姿ば思い浮かべよったばってん、後で考えてみっと、きっと護身用だったとやろ。全学連が華々しかった頃、彼らがヘルメットをかぶり、タオルで顔を隠した姿ば見て、親父は「三池争議のときとそっくりばい、そばってんあいつらの持っとる角材には釘の打ってなかけん、まだよかたい。争議のときは角材から釘の出とったけん。」と言いよった。
 篭城しとった親父ばってん、時々家に帰って来よった。後で話ば聞いたらうったまがった。船で島原の方さん行ってから帰ってきたとか、ヘリコプターに乗ってきたとか、使われよらん坑口から坑内に入ったとか、戦争映画のごたる話しやった。確かに、ある意味で戦争やったとやろばってん。
 母に手を引かれて篭城しとる親父に電話をかけに行ったこつのあった。四山社宅の事務所やったごたる気のすっとばってん、争議中にあそこに行かれたやろかと、疑問たい。幼かった俺には何で親父と電話で話すとやら考えることもなかった。何で家から電話せんとと思うかもしれんばってん、当時は商売でもしよらん限り、個人の家で電話のあっとこは珍しかった。
 もう40年以上も前の話やし、俺も幼かったけん記憶が定かじゃなか。そばってん、今となっては信じられんごたる出来事が大牟田で繰り広げられよったとは間違いのなか事実やけん。




 
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